カナダで保護施設から引き取った犬が家族になってそろそろ1年になるこの時に書き残しておきたい事

他州からこの町に越して来て2年が過ぎた。カナダで過ごしたそれまでの3年間だけで既に2回も引越を経験していたから、ここにやって来た当初も1年先がどうなるかすら想像できずにいた。

元々「大」がつく程の犬好きな私は、当然カナダに来てからもずっと犬を飼いたいとは思っていたものの、そんな状況では犬に安心して毎日を過ごしてもらえる場所を提供できるような自信だって無かった。

ところがどうやらこの町とはいい縁があったようで、有難い事に安定した生活を送れるようになり、ここでなら今後心を落ち着けて暮らして行けると感じられるまでになった。そして家も買った。どこかで困っている犬を1匹なら受け入れられる環境ができた。

カナダで犬を飼いたいと考える人の多くが「保護犬を引き取る」という選択肢を最優先にしている。

そう知ったのはいつ頃だったかもう忘れてしまったけど、いつか自分にもカナダで犬を飼う覚悟ができた時には保護犬の中から探そうとその時から考えるようになったのとも同時に、逆にそんなに多くの保護犬が存在している現実を残念に思った。

そして昨年の1月、周辺にあるシェルター(保護施設)のウェブサイトやFacebookページを見始めた時、実際に新しい飼い主との出会いを待っている犬や猫が信じられない程沢山居るのを知る事になる。

そもそもシェルターってどんな場所であるべきなんだろう。「核シェルター」や「DVシェルター」の言葉がある事からも分かるように、あくまで緊急の事態に遭遇した際に、一時的に庇護を求める場所というのが一般的な理解であるように思う。少なくとも人間にとっては。

犬や猫にとってシェルターが意味するものは、少なくとも私の目には人間のそれとはまるで違って見えた。どこもかしこも満員状態で、入れ替わり立ち替わりも激しい。場所を空ける為に引き取り費用の「ディスカウント」をして人の目を惹き付け、それで引き取られた動物が居ればまた別の動物を外から「入荷」できる。さながら需要と供給の関係が確立されたサプライチェーンのようだ。

私が新しい家族を引き取ったその日も、シェルターが特別に「引き取りイベント」と称して引き取り費用を普段より低く設定した事もあって、その小さなオフィスは沢山の人でぎゅうぎゅう詰めになっていた(そう、当時はまだ本格的なコロナ禍に突入する前で、小さな空間に多くの人がマスク無しで一緒に居る事に対してまだ誰も何も思わずにいられた)。

登録を済ませたら番号札を渡されて順番が回って来るまで待ち、呼ばれた人から中へと入って行く。暫くすると大抵の人は犬を伴って満面の笑顔で出て来る。私は「20」と手書きされた札を手に、前週このシェルターを訪れた時にはもう心に決めていたあの犬が誰かに連れられて出て来るのではないかと気が気でなかった。ところがそこに姿を見せた犬のほとんどはまだ幼く、新しい飼い主になる人に抱きかかえられるようにしていた。

そして私は無事に希望していた犬を家族へと迎え入れた。

まだ私達が家族になる前。シェルターに保護された当日に撮られたという写真。

私の家族になったのは、真冬に雪深いアルバータの荒野を放浪していたという1頭の雌犬。保護時は皮膚の状態が悪く、一定期間治療を重ねた上でようやく引き取り先へと案内できるようになったらしい。当時はまだ肋骨がくっきりと浮き出る程に痩せ細っていて、見ていてとても可哀想だった。

幸いにもその後数ヶ月を経て5kg強の増量に成功し、それと同時に毛艶もよくなり絶世の美女へと変身を遂げた。去年の夏には一緒にジャスパー国立公園まで2泊3日の旅に出かけ、以前苦しい時を過ごした荒野とは違う美しいカナダの大自然も堪能できた。

それでも今なお思う時がある。彼女は一体どのような経緯があって、厳冬の中を彷徨わなければいけなかったのだろうかと。

今のこの時代に「野生動物」として見做される犬など居てはいけない訳で、単独で彷徨っていれば当然保護の対象になる。お世話になったシェルターに居るのも大半はそのような犬達。つまり我が家の犬もその一例に過ぎなかった。

このシェルターのFacebookページをフォローしてから1年になるが、まだ保護されたばかりだという犬の写真がほぼ毎日のように掲載され、そこにはページを見ている人に引き取りや寄付を促すような言葉も添えられる。

ただ、コロナ禍が始まって暫くの頃は様子が違った。犬の引き取りを希望する人が急激に増えた。コロナ禍の最中に多くの人が押し寄せては困ると希望者のシェルター訪問が予約制に変更されると、今後は予約受付開始時間から数分で全ての枠が埋まってしまい、するとそれに対して文句を言う人まで出始めた。

コロナの流行を境に犬を飼いたいと願う人がなぜ増えたのか。その答えは至って単純。在宅ワークになって家に居る時間が増えたのが原因だったり、子供が通う学校で授業形式がオンラインへと移行した結果友達と触れ合う機会が無くなったからとか、社会全体が閉塞感に溢れている中で癒されたいとか、まあ大半はそんなところらしい。そのような報道を目にした回数は少なくない。

“I think when people were home, they had a bit more time and they thought, ‘Well, this is probably a good time to bring an animal into our family,'” she said.

“Shelters struggle to keep up with skyrocketing demand for pet adoptions during COVID-19” / CBC

「道理で犬や猫といった命までもがサプライチェーンの中に組み込まれてしまう訳だ」。それが私の率直な感想だった。

無論サプライチェーン云々はあくまでも社会にとっての話。シェルターそのものは営利目的で運営されている訳ではないし、ほとんどの場合寄付によって初めて成り立っている。そして何よりシェルターで働く人達は目の前にある命を救い、幸せに生きられるきっかけを与える事に集中している。

それなのに人々は肉や野菜でも買うかのように、「必要」だからと言って動物を引き取ろうとした。手に入らなければ苛立ちを見せた。まるでマスクやトイレットペーパーを探し求めて奪い合うかのように。

動物達がどんな目に逢った上で保護され、シェルターへと連れられなければいけなかったのか、思いを巡らせる事はそんなにも難しい事なのか。人は助けるつもりであっても、動物達にすれば見ず知らずの人にこちらからあちらへと連れて行かれるのを恐怖に感じる事だってきっとある。そしてようやく助かったと思ったら、自分を命として正しく扱ってくれない人にまた別の場所へ連れられる。どうして?

コロナ禍が収束してオフィスでの勤務に戻ったら?学校が再開したら?社会が明るさを取り戻したら?家に居たから世話できていたのが家に居なくなったら?

各地にシェルターがあって、シェルターにより救われる動物が多いのはいい事でも、そこから引き取るのがブリーダーなどから買うよりずっと「手軽」である為か、あまりにもぞんざいに扱われてしまう動物が少なくないのも事実だ。もし首輪に鑑札をつけていれば、体にマイクロチップが埋め込まれていれば、例え何かの拍子に離れて逃げてしまっても、無事に保護されればすぐに飼い主にも連絡がつく。それさえもしていないから、またどこかのシェルターに戻らなければいけない動物達が居る。

当地ではこれから野生のコヨーテ達が繁殖期に入るそうだし、それと同時に北極で極渦が発生する影響を受けて、とうとう本格的な冬が到来するとの予報も出ている。こんな時にもまだ多くの犬や猫達がどこかを彷徨っているのだろう。どうかより多くの動物達が本当の意味で救われますようにと願っている。

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