「ひとりごと」

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今後も長く続く海外生活だから 四十代から始める「終活」

海外に長く暮らして来ていても、幸い死を身近に感じなくてはいけないような危なっかしい環境ではなかったから、今振り返ってみれば、これまで随分呑気に日々過ごしていたような気もする。

海外で長いからこそ、「海外=危険」などと短絡的に捉えたりはもうしないけれど、カナダも含めて、今までに生活した経験のあるどの国であってもやはり知らないことだらけで、殊に日々の生活と直接結びつかないような事柄ともなれば、自らがあまりに無知であるのに嘆かわしく感じられる時もあるものだ。「死」の前と後での身の振り方についてもそうで、いつだって「まだ若いから」と、それほど真剣に向き合おうとすることは無かった。

ただ、間違い無く言えることは、無知であることが自分自身の不安を招くのは海外でより顕著である点。そこは日本語が通用する場所ではなく、私をカバーしてくれる子供が居る訳でもない。慣れたつもりではいても結構孤独だ。そういった弱さを無視し続けてはいられなくなるタイミングが、私の場合は四十代半ばを迎えた今だったらしい。

私が自身の「死」について考える時、最も心配なのが実は骨をどうするのかだ。

何故四十代にしてそんなことを考えるのかと人様は感じるのだろうが、海外に生活し、子供も居なければ、いつかは答えを見つけなくてはいけない問題であるのは確か。現時点でこそまだ日本にお墓はあるものの、私が逝く頃にもなればそれを管理してくれる人も無く、もうお墓そのものを処分してしまった後かも知れない。そして何より、これまでに幾度と無く住む場所を変えて来た私は、特定の場所に対する絶対的な帰属意識を持てなくなってしまっている。だから私には、どこかに収めて封をされるのではなく、海にでも散骨してもらいたいとの願いがある。それが一番自由で、何も残さず、誰も困らせずに済むような気がするから。

そんな訳で当地での散骨に関するルールを調べてみたところ、そこはカナダ、やはり各州がそれぞれの法律に基づいて取り決めている。州を跨いで引越をすれば、運転免許を書き換えないといけなかったり、新しく健康保険証も申請しなくてはいけないのと同じで、こちらの州とあちらの州では遺言書の作成に関するルールや、散骨が許される場所についての規定もまちまちでなかなかに厄介だ。

これまでに知り合った日本人は皆カナダへと嫁いで来た人ばかり。少なくとも私が推測するに、彼女達が将来その亡き骸にせよ、骨にせよ、行き場を見つけるのは難しいことではなく、特に日本との結び付きに拘りさえしなければ、老後どころか、死後も孤独にならずに済むのだろうから、それを羨ましく感じると同時に、残念ながら私はこの話題に於いて彼女達との間に共通点が見出せるようには思えない。

結局、それならどうして海外に移住することを選び、その地で市民権を取る決断をしたのか、という話にまで戻ってしまいそうで、そんなつまらない堂々巡りを繰り返すぐらいならば、ただ悩むより行動に移す鈍感さとフットワークのよさを身につけてしまった方が手っ取り早いというのが私なりの現実。

人様が想像するようなキラキラした海外生活ではなくても、それはそれで「生きている感」もあり、こうして死を意識するのも今生かしてもらえているからでもある。もしずっと日本に住み続けていたとしたなら、さて今頃はどんなことを考えているのだろうかと想像を巡らせることができるのだって、海外に生活している者ならではの特権だと思えば悪くはない。そう自分に言い聞かせ、嘆きや哀しみや孤独よりも探究心を持って、私なりの終活を少しずつ進めて行きたいと思っている。