日本国籍を失ってでもカナダの市民権を申請すると決めた理由

最近になってカナダの市民権取得の申請をする事に決めた。この国に来てもうすぐ5年。間も無く44になろうとしている時に。

この決断に至るまでには大きな葛藤があった。永住権を得て移住して来る前からいつも頭のどこかにあって事あるごとに考えていた。既に海外他国で20年以上生活していた事も少なからず関係していたのだと思う。それだけ長い間日本を離れて生活していたからこそ自分なりに見えたもの。それは何だっただろう。

心中に葛藤を巻き起こす最大の原因は、私が日本人である事実そのもの。この事実が根本にあって、長く続いて来た海外生活の中でも変わらず精神的支柱として居座っていてくれた。それはつまり誰にも侵されない安心感で、温もりで、励ましで、誇りだった。時を重ねれば重ねる程、その有り難みを少しは理解できる自分にもなれた。

そしてカナダにやって来て、引き続き葛藤を抱えつつ市民権の申請を考えていた理由がどこにあるのかと言えば、まずひとつにこの地で生きて行く上で更なる安定を欲したという点がある。縁もゆかりも無かったはずの遥かなる地で有り難くも永住権を頂いたものの、私は元々カナダに何かしらの憧れがあってやって来た訳ではないし、今の今まで特別な思い入れがある訳でもない。それでもここで生きて行く事だけは決めている。憧れも思い入れも無いからこそ、尚の事安定が欲しいのだと言えるかも知れない。

現状選挙権以外は基本的に全てを与えてもらえている。足の踏み場も、新たに生活を営む機会も、健康的に生きる環境も。一部就けない職業があるが私自身には関係の無い話。しかし同時に、カナダの永住権が「無条件でこの国に住まわせてもらえる権利」ではないところに不安定さを覚える年齢にもなったのもまた事実だ。

私もこの歳になって漸く親の事も考えられるようになって来た。18歳になる年に日本を離れてからこれまで散々自分勝手をさせてもらい、それに対しても時に黙って見守り、時に理解を示してくれた。それでもいつも両親のそばに居るというのは私がしてあげられる恩返しではないのは確かな事で、だから自分が必要になったり、助けになれたりする場面が来た時ぐらいは、互いに何を心配する事も無く、いくらでもそばに居られるようにしたいと思っている。

ただ、それを実現するのには永住権をもってしてもまだ不足があるかも知れない。なぜならカナダの永住権にはあくまでも有効期間があり、現行の移民法に拠れば、連続する5年の間最低でも2年は国内に滞在していないと更新できない(2021年1月現在)。この条件が満たせなくてはそれ以上カナダで生活する権利を失ってしまう。

そう、私は今後カナダで生きて行くと決めている。それなのにその権利すら失ってしまっては困る。ところが市民権さえ取得してしまえばこの問題も解決される。親の世話をする為だろうと、何か他の理由だろうと、日本に何年滞在しようともカナダの市民権を剥奪される心配は無いのだから。

私がカナダの市民権を申請するのにはもう1つ大切な理由がある。それは残りの人生をここで生きて行くと決めた場所に対して、何かしら自分にもできる貢献をしたいと思ったという事だ。

カナダに移民がやって来るのは、ただ国が必要としているからという単純な理由があるだけではなく、前提としてそれを可能にする社会とシステムもあってこそ初めて実現している。これまでにも多くの移民を迎え入れ、その移民達が社会の新たな血となり肉となり、よりよい社会の形成とシステムの構築に助力して来た背景もあって、この国はまた次の移民を迎える事ができ、私もその中の1人として受け入れてもらえた。当然その後に続く人がまだ幾らでも居る。彼等もその時を待っている。

無論誰もが社会に大きな影響を与えられる程の優秀な人物になれるのではないから、それこそ私のように、何ができるかと聞かれたところで片方の手で数えられるぐらいしか思い浮かばない人は他にだって居る事だろう。だから私もこれなら自分にもできると思って行ったはずの献血なのに、健康上の理由で断られてしまった時などはとても悲しかった。

そんな事を考えていた時、カナダにもコロナウイルスの波が押し寄せた。関連するニュースを毎日目にするようになり、今でこそ誰もがその存在に慣れてしまったようだが、この僅か1年の間に世界を取り巻く状況は大きく変化した。あれだけマスクを極端に嫌っていたはずの人達が皆マスクをするようになり、どの店に行ってもハンドサニタイザーが置かれ、手の消毒を済ませてから入店するようになった。

生活環境が大きく変わりゆく中、私はコロナ発生前まではさほど気にする事の無かったニュースをチェックするようになり、毎日決まった時間に州政府が行うアップデートとそれに続く記者会見もほぼ欠かさずに観ている。具体的な方策が示される内容に新鮮味を覚え、なかなかに興味深い。

これだけの難しい状況にあっても、カナダは連邦レベルでも、州レベルでも、多くの決断をスピーディーに、何より果敢に下して来たように思う。果敢である事は必ずしもいつも物事をいい方向へと導く推進力になる訳ではないのだが、誰にとっても初めての事で幾度となく難しい選択を迫られているにも拘らず、連邦政府、州政府共に、その時その時でできる事を十二分にやってくれているように私には見える。

このように政治の動向と結果が鮮明に見える故に、それ以前に民衆によって下されている決断(つまり選挙に於ける投票行為)が社会にとって大きな影響力と意味合いを持つ事をこれまで以上に強く意識するようになった。しかし選挙権を持たざる者は、誰が選挙で選ばれようとその過程で果たした責任など皆無だし、結果唯々他人の決定に従うだけだ。社会の一員になりたいと望みながらもなりきれない、そんな感覚が残るのはどうにも否めない。

独りよがりで自己満足的な考えだと言われようとも構わない。ただ私は、この社会に生きる者として、この社会とそこに住む人々を思い、皆がよりよい明日を迎えられる為に一票を投じる事は、まさに自分にも果たせる責任で、成し得る貢献だと思った。それを実現するのには、国に対して市民権の付与をお願いする事が必要不可欠だ。

カナダに来る前に他国で長い時間を過ごしていても市民権を取得するという考えにはまるで至らなかったから、今回の決断がどれだけ重いものなのかは私自身がよく分かっている。そんな私以上に長い時間を北欧某国で過ごした親類ですら、その国で市民権を取得する事まではせずに、最後の最後まで日本国籍である事に拘り続けた程だ。この決断を出した今、親類の気持ちも逆にこれまでに増して理解できる気がして、どこか心に刺さるようでもある。

しかし決断と覚悟はもう済ませた。もちろん心が1ミリも揺れないなどと言えば嘘になる。だからこそあとは行動に移すのみ。申請に必要となる英語のレベルを証明する為に、数日後からは移民向けの語学クラスも受講する事になっている(別文:コロナ禍の中カナダの移民向け語学クラスで学ぶ)。市民権を取得するという決断が単なる独りよがりで終わらないようにする為にも英語力をできる限り向上させるのは大切な事だと感じているし、そうする事で自分がここでできる事だって今以上に増えるだろう。

幸いにも他の条件なら既に満たしているから、この3ヶ月に渡るクラスを無事に修了さえできれば申請書も提出できる(その後:「もう振り返らない」カナダの市民権取得申請を提出した話)。これまで長い間悩み続けて来ていた事を考えるとあまりにあっさりし過ぎているような感じも拭えないのだが、私にはそれぐらいがちょうどいいのかも知れない。来年の今頃自分がどんな気持ちで日々過ごしているのか、更に前向きになれているのか、そんな事に思いを馳せるのも案外楽しいものだ。