『ウソから始まる恋と仕事の成功術』(原題:The Invention of Lying)という映画がある。嘘の概念すら知らない人達が生きる世界で、とあるきっかけにより嘘を覚えてしまった男が巻き起こす「イタズラ」や騒動を中心に展開されるストーリー。
それはそれで面白く、時に心温まったりもするのだが、何より嘘を付けない人々によって突きつけられる「事実」の数々は主人公の心を折らんとするばかり。コメディ映画だから笑って観ていられるものの、もしこれが現実の世界であったらと、余計な事を考えてしまわずにはいられないのだった。
「本音と建前を使い分ける日本人とは対照的に欧米人は何でもストレートに言う」だとか、「アメリカは人種差別があって、カナダやオーストラリアには無い」などというのは、どちらもよくありがちなステレオタイプだ。言うまでもなく、それは誰もがちょっと考えれば極論に過ぎないと判断がつくものだし、ステレオタイプの存在そのものについては日本に限らずどこにでもあるもので、その点について今更どうこう言う必要も無いだろう。
現実にはカナダにだって人種差別は存在していて、特に今回のコロナ騒動が始まってすぐの頃は、東アジア系の人が汚い言葉を浴びせられたり、ひどい場合には突然見ず知らずの人に殴りかかられたなどという事すらあったらしい。
そんな報道を目にした時考えずにはいられなかったのが、そこまで極端な行動に出た人達の心理についてだった。果たして単にコロナが東アジアで発生し、その後世界中に感染が拡大して行った事に不満を持ったのか、それともコロナはあくまできっかけに過ぎず、元々東アジア人に対して偏見という名の火がくすぶっていたところにコロナが油を注いだのか。
いずれにしても特定の人種を対象とした攻撃で、それが人種差別である事に変わりは無いのだけれど、後者の問題は更に根が深く、東アジア系の人達は日頃から理不尽な原因で攻撃される可能性にさらされている事になる。
では実際のところ所謂「欧米人」の範疇に含まれるカナダ人の表現はストレートなのか。それも一概には言えないと感じる。ただ日本人が独特の奥ゆかしさをもって表現する部分をカナダ人はより直接的に表現しているだけかも知れないし、逆にカナダ人が「そんな事言っていいの?」と驚くような事を案外日本人も平気で口にしているかも知れない。
そもそもストレートという言葉には、包み隠さず素直にという必ずしも否定的要素を含まないニュアンスもあれば、攻撃性を伴った鋭さを指していう事だってあり、それを分かつ社会的なルールが存在するのは日本もカナダも変わらない。例えば、人の外見や年齢を話題にする事に対してカナダ人はより神経質なところがあるし、日本でなら許される範囲であってもここではタブー視されている事は少なくない。
本来は人種や性的指向なども細心の注意を払うべき対象として含まれていて、大半の人はそのルールを守っている。ただ、単なる外見や年齢と異なりそこには確実に「主流派」と「非主流派」が存在し、中には絶対的優越感に浸って他者を攻撃しようとする者が出て来る。
そして自らが東アジア系という「非主流派」に属している以上、前述した出来事に対しても敏感にならざるを得ないし、時には疑心暗鬼に陥って、「もし守るべきルールが無かったら?」とか、「本心ではどう思っているのだろう?」などと考えてしまう事があるのは否定できない事実だ。
話が逸れるようだが、この文章のタイトルにある「カナダ人」の表現については違和感を感じる人も居る事だろう。なんせカナダは移民大国。「カナダ人」という言葉は、異なる母語を話し、異なる宗教を信仰し、異なる文化的背景を持ち、人種も異なる人達で構成されるグループの総称だ。しかしタイトルでは、それを理解した上で敢えて別の意味合いでこの言葉を用いている。別の意味合いとはつまり上述した「主流派」、特に人種的な観点から見た「主流派」を指している。
どこの社会に於いても、「主流派」に属するというのは生まれながらにして目に見えない刀を与えられているようなものだと私は思う。持っているか持っていないかではない。望んでいるか望んでいないかでもない。持っているのを意識しているか意識していないか、使うか使わないかだ。努力を必要とせずに与えられた優位性ほど見過ごされ易いものは無い。
今年世界各地で広くブラック・ライブズ・マターが叫ばれた時に、「大切なのは黒人の命だけではない。オール・ライブズ・マターであるべきだ」と主張する声が上がったのも、優位性を享受する人々がその優位性を見過ごした上での結果と言える。「主流派」が無条件で刀を与えられているのに対して、「非主流派」に与えられる盾など初めから存在すらしないのに。そして彼等が幾度も心ない言葉にさらされ、鋼の精神を鍛え上げる事を迫られ続けているのにだ。それに気が付かない人が絶望的に多い。
いよいよ話が脱線し過ぎた。
昨年末に一軒家を購入し越して来てちょうど一年になるが、幸いにもご近所さんには恵まれていて、気持ちのいいお付き合いをさせて頂いている。それとは同時に、特に今のこのコロナ禍にあって、極力目立たないように最低限の注意を払ってもいる。「非主流派」には「非主流派」なりの生きる道と術がある。誰に何と言われようと、それこそが自分なりの現実だ。