カナダで難航する「優良借主」探し いつまでも尽きない大家の悩み

過去に「書を捨てよ、町へ出よう」と言った作家が居た。そして今、私にも言いたいことがある。

夢物語ばかり語るのはやめよう。一度は大家になってみよう。

そうすることで見えて来る社会の縮図には、時にいたずらに賛美されがちなカナダにも存在する「美しくない姿」が垣間見えることだろう。


オンタリオへと引越するにあたって、ここアルバータでの持ち家を貸し出すのを迫られた私。人間不信に陥りそうになるほどの苦労を重ねてようやく借主を見つけたと思いきや、このタイミングで半地下の住人の退居も決まり、また別に借主を探す羽目になった。

引越を前にしてただでさえ忙しい時に、あの悪夢でも見ているかのようなプロセスをもう一度繰り返すのかと思うと憂鬱になったのは言うまでもないし、残された時間も少ない中で無事に見つかるかどうかも分からない。転勤が原因の退居とは言え、全く何てひどいタイミングなんだと内心彼を恨んだ。

とは言え、どれだけ彼を恨んだところで次の借主を探すことの助けになる訳でもない。そして私はすぐにネット上に広告を掲載した。

同じ一軒家でもその主要部分(1階と2階)を貸し出すのと違い、半地下ともなれば当然広告に食いついて来るのも若年層や低所得層に属する人が多い。結果、上層階に比べて家賃収入が少ないにもかかわらず、借主候補者の判定にはまるで気が抜けない。

メッセージが入って来ても無礼で非常識な輩が半数以上を占めるような状況では、私も次第に怒りを忘れて嘆きばかりが後味として残り、どこか割りに合わない仕事をしているような気持ちにさえなっていたところ、ある日突然珍しく丁寧な内容のメールが届いた。

それは息子に代わって連絡して来たという母親からのものだった。日々心が荒んで行きつつあるのを感じていた最中にそんなメッセージが届いたものだから、私はあたかも「絶滅危惧種」でも見つけたかのように、興奮のあまり友人にまで報告してしまったぐらい。

なぜ今年34にもなるという息子に代わって母親が部屋探しをしていたのか。その理由は彼がアスペルガー症候群を患っていることにあった。アスペルガー症候群と一口に言っても症状は人により様々だそうで、彼の場合、自分で部屋探しをするのは困難があるらしかった。

アスペルガー症候群を患う知り合いが居ない(と思われる)のもあり、最終的に彼が借主になる場合にも互いが困らないようにと、唯一の頼みの綱であるネットを駆使していろいろと調べたりはしていた。実際に内覧にやって来た彼とのコミュニケーションは至ってスムーズで、それなら特に心配する事も無いかと思っていたのだが、その後の展開は改めて私に「気づき」をもたらす。

全く不安が無かったとは言わなくとも、彼になら貸し出してもいいだろうと判断し、早々にでき上がった契約書を彼の母親にメールで送信した時のこと。1点だけ問題があるから修正してもらえないかと相談して来た。何かと言えば室内での喫煙を禁じる内容についてだった。

喫煙家の私でも家の中では吸わない。真冬のマイナス40度まで下がるような日であろうと、たったの1本のタバコを吸う為に帽子を被り、マフラーを巻き、厳寒地仕様のコートを着て外に行くし、それを1日に何度も繰り返す。以前に借りて住んだどの家でも室内禁煙は当たり前だった。

ところが、彼はアスペルガー症候群が原因で日常的に医療用大麻を使用しているらしい。しかもそれ無くしては自殺念慮(自殺願望)を引き起こす可能性まであると言う。

彼の母親曰く「大事なことなのに伝えるのを忘れてしまった」。しかしこれまでの他の人とのやり取りもあってすっかり疑い深くなっていた私には信じられなかったし、おまけに自殺という言葉まで持ち出すのは、私が契約せざるを得ない状況に追い込もうとしているようにすら感じられた。

彼が病気についてあまり他人に知られたくないのはもちろん理解できる。彼のプライバシーにも関わることだから、こちらとて根掘り葉掘り聞くつもりは毛頭無い。医療用だろうが、嗜好用だろうが、カナダでは大麻の使用は法律で認められているのだから自由に使えばいい。ただこの家の中ではやめてくださいね、というだけ。

何より、上の階に住むことになっている人とも既に同じ条件で契約を交わしている。家賃はその契約書で双方が約束した条件に基づいて払ってもらうのだ。彼に室内での大麻の使用を許可してしまうと、つまりは先に契約している借主との約束を反故にすることになるし、大麻の匂いは元々結構強烈で、部屋にこびり付けられてしまうのは私も嫌だし困る。

そのような事情もあって、家の中は困るけど外で吸う分には構わないとメールしたところ、今度は「食用大麻を試したこともあるけど、吸うタイプのものが彼にとっては最も効果があった」だとか、「フィルターを使いながら吸うから煙も匂いも広がることは無い」だとか、「彼が使用するタイプの大麻は特に冬になると外気の中では上手く吸入できない」といった内容で返信が来た。

つまり彼にとっては家の中で大麻を吸えることが絶対条件であって、私は逆にそれを絶対に受け入れられない。彼が大麻を吸う理由に理解を示せても、もう1人の借主との契約に私自身の持ち家を犠牲にしてまで彼の要求を呑むような理由は無い。他の家主にしても同じことだろう。

そしてついに断りのメールを送った。申し訳無いけれどそちらの要求に応えることはできませんと、それまで丁寧にコミュニケーションを取ってくれていた相手に対し、私も最大限の誠意と礼儀を尽くして書いたつもりだ。

しかし期待はやっぱり裏切られなかった。そんな私のメールに彼の母親からの返事は無かったのだ。本来であれば「裏切られた」と言うのが正しいのだろうけれど、どうせそんなものだろうと想像がついていた。

それならなおさら断りのメールも出さずに先方とのやり取りを自然消滅させるか、書くにしてももっと適当に書いてしまえばよかったのにと思う人も居るかも知れない。でも私は結局のところ日本人で、海外でどれだけ長くなろうとも大切にすべきことは自分で守り続けていきたいし、他人にとっての日本人像が悪くなるようなこともなるべく避けたいと思う。少なくとも今回私はこうするのがいいと信じるやり方でピリオドを打てた。相手も相手のやり方でピリオドを打てばいい。

この過程で何に気づかされたのかと言えば、所詮私のカナダでの生活経験などまだまだわずかなもので、それだけに伸び代は幾らでもあるのだということ。5年半の間に大麻の匂いは覚えたけれど、その匂いが自身の生活により直接的な影響を与える可能性がある社会に暮らしているのを意識したことは無かった。確かにおかしな例えだ。でも実際にはそれもカナダに住んでいるからならでは。

さて、次には何が待ち受けていて、また何を思い知らされるのだろうか。その機会が運良くそれからすぐに決まった借主によってもたらされるのではないことだけ願う。