いつも半地下から漂うのは濃厚なチーズの香り

我が家のベースメント(半地下)は去年4月から貸し出していて、そこに住むのはもうすぐ40になろうかというカナダ人男性。現在独身の彼は、以前の彼女さんと飼っていたという1匹の猫と一緒に暮らしている。

元々他人の家や部屋から伝わる騒音に敏感である私が、それでも自宅の一部を人様に貸し出したのはローンの返済という現実もあってのことなのだが、幸いにも彼はとても静かな人で、耳につくような音が階下から伝わって来るようなことはまず無い。私には2匹の犬が居るし、普段から気をつけてはいるものの、逆にこちらの生活音で迷惑を掛けていないかと時に彼に聞いてしまうくらいだ。

カナダに於いてはレアキャラ的な彼(カナダ人が皆うるさいとは言わないけれど、彼等は基本的に「大らか」で「自由」だ)。それでもひとつだけ、私には苦手な点がある。それが彼が度々焼いているピザの匂いだ。

正確に言うなら「焼いている」のではなく、ただピザ屋さんで買って来たものを温めているだけなのだけれども、どういう訳か私がいつもスーパーで買う3ドル程度の安い冷凍ピザとは明らかに違う強烈な匂いが家を支配する。とにかく濃厚で、そして何より油っぽい。

ちなみに私はチーズが嫌いではない。カナダのチーズがもっと安ければ、毎朝おいしいチーズと酸味の効いた黒パンなんてデンマーク的な組み合わせで楽しみたいし、ついでにお酒も安かったなら、毎晩大きめにカットしたカマンベールとワインでフランス人みたいに優雅に過ごしてみたい。そう、私は結構チーズが好きなのだ。

いくら「ダブルダブル*」が好きなカナダ人とは言え、さすがに「2種類のチーズをダブルダブルで」なんて頼み方はしないだろうし、いや、でもプーティン**を生み出した国だ、そんな超高カロリーの食べ方もあるのかも?などと要らぬ想像を掻き立てられる半地下からの匂いは、チーズ好きの私をも圧倒してしまう。


*ダブルダブル (double double):ダブルダブルとはカナダ随一のコーヒー(ドーナツ)チェーン店、ティムホートンズ (Tim Hortons) で多くの人がコーヒーを頼む際に口にする言葉。通常のコーヒーに含まれる砂糖とミルクの量を1とした時に、その倍量(砂糖、ミルクともに2)を投入して激甘コーヒーにしてもらう頼み方。「ブラックで」と言わないと砂糖もミルクも勝手に入って来るお国ならでは。

**プーティン (poutine):フレンチフライを大量のチーズカードとグレイビーソースでコーティングした(トッピングなどというレベルではない)カナダを代表するスーパーハイカロリーフード。ケベック州名物。

ところが先の週末の事だ。これまで匂ったことの無いチーズ以外の匂いが私の生活空間に漂って来た。それは私達日本人が家庭で作るミートソースのようで、瓶詰めのものを温めただけのとは違う、いかにも手作りならではの豊かな香りだった。

実はその日、彼の新しい彼女さんが泊まりに来ていた。どうしてそれを私が知っているのかと言うと、外から人を入れるからなのか、彼は律儀にも前もってメールで伝えて来ていたからだ。普段の食生活から想像するに、申し訳無いが彼にあのような香りが出せるとはとても思えないから、恐らくはその彼女さんがこしらえたのだろう。そう思うと、私は何だか微笑ましくなってしまった。そしてその日は夜になっても、いつもの彼からは想像できないぐらい、ほんの少し大きめの声で会話を楽しんでいるのが聞こえた。

同じ屋根の下に暮らしながら、私も彼のことは正直大してよく知らない。家主と借主という関係から抜け出せる程の共通の話題があるとも思えないし、カナダ人にしては変に礼儀正し過ぎる(失敬)彼とは何を話そうともいまいち会話が続かないのだ。私がこの後引越してしまえば、もちろんベースメントは彼に貸し続けるものの、直接会うことも無くなって、きっとこれまで以上に家主と借主であるだけの関係になるのだろう。結局のところそれだけの関係性だから口にこそ出さないけれど、彼が今回の彼女さんとは長く続いてくれたらいいなと思う。