シカゴと言えば?
これだけ知名度のある町だから、私だって当然その名前ぐらい知っている。ところが、恥ずかしいことにシカゴの名を聞いても思い出すものは何も無かった。だから帰国の途上で半日の時間を過ごすことになった時、そこに何があって、何をすればいいのか見当もつかなかったというのが事実だ。
そこで調べてみると、観光客がよく訪れる場所にはミレニアムパークに高層ビルの展望台、各博物館や美術館などが紹介されていた。
元々ただ闇雲に街歩きを楽しむことが好きな私だから、シカゴの摩天楼を見上げながらブラブラしつつ、その中で目に止まったお店をひやかしてみたり、趣のあるパブでも見つければちょっと1杯引っ掛けてみたりもして、そしてまた街歩きを続けるというのが一番の理想だ。
だが残念ながら今回はそれが叶わない理由があった。当日の天気だ。別に雨模様だった訳ではない。しかし暑かった。日中の最高気温は30℃にまで達し、ただでさえ暑さに弱く、夜にはまた長い時間をかけて日本へと移動して行こうとしていた私には、シカゴで下手に体力を消耗するのは無謀としか思えなかった。
まだ5月なのに、アメリカでも北のカナダに程近い場所に位置するシカゴのような町で30℃にもなる日に鉢合ってしまったのは全く運が悪い。
デトロイトからシカゴへと向かう電車の中で、私は到着後の半日の時間をどう潰そうかと尚も悩み続けていた。最後まで残ったのは2つの選択肢。シカゴ美術館 (The Art Institute of Chicago) とアドラープラネタリウム (Adler Planetarium) だ。そして結局選んだのは前者。単に電車の到着するユニオン駅からの移動がよりしやすく、暑さに晒される時間をより短くできそうだったから。つまり私はそれほどまでに暑さが苦手ということでもある。
それだけ悩んでようやく訪れた美術館だったのに、やはり私の動機が不純だったのだろう、率直に言ってあまり楽しめなかった。大体私自身の興味が決して美術館向きではない。博物館ならまだしも、絵画や彫刻といった類には関心を持てない者が美術館などで何をしたかったのか。そう、暑さから逃れたかっただけ。実際には期待していた程クーラーが効いている訳でもなければ、私に予想外の歓喜を与えてくれる作品があった訳でもなかった。同じ美術館なら、私にはニューヨークのメトロポリタン美術館の方がまだ魅力的に映るし、イギリス・ロンドンの大英博物館と比べてしまうともう「全然」だった。
私にすればより興味深かったのは、様々な人種の人々が、私とは違ってただ涼しさだけを求めてではなく、芸術に触れるという共通の目的意識でその場を訪れているという全体像だった。コロナ禍により過去2年間以上に渡って移動を制限されて来た人が、ここに来て漸く少しずつ自由を取り戻しつつある中、世界各地からシカゴへと吸い寄せられて各々のやり方で時間を満喫しているのを見るのは、何だか不思議な新鮮味があったし、単純にうれしくも感じた。
ちなみに、これまでよく「人種のるつぼ (melting pot)」と言われて来たニューヨークやシカゴのようなアメリカの大都市だが、最近では「サラダボウル (salad bowl)」なんていう表現を用いられるようになっているのだそうだ。両者にどのような違いがあるのかと言えば、前者ではそれぞれの文化が混ざり合い、同化して、その結果独特な共通文化を形成していることを表しているのに対し、後者では混ぜても溶け合うことはないという意味から並立共存の状態を強調している点だ。
いくら「サラダボウル」などという言葉を使われようとも、その中に身を置いた時、実際にその言葉が表すように並立共存の状態であると感じられるかどうかが全く別の問題であるのは、アメリカにもカナダにも言えること。ただ、シカゴにはあくまで観光客の一人として半日訪れただけの私だから、変に深入りしたりはせずに、視覚を通じて見える色鮮やかさだけを楽しみたかった。
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そういった人達を観察して楽しむだけでいいのなら、わざわざ美術館などに入らなくとも叶う。だから私は余計にこの日の暑さを恨んだ。もっと過ごしやすい陽気であれば、それこそ公園のベンチに座ったり、リバーサイドをそぞろ歩いただけでも、きっとシカゴを好きにならずにはいられなかったに違いない。
そういえば、美術館へと足を運ぶ前にスーツケースを預けたお店の主人が、最近になって随分と観光客が戻って来たとうれしそうに話してくれたのを思い出した。次にまたシカゴに行く時には街歩きだけでなく、そんなおじさんのほくほく顔にも期待したい。