元々日本人は「差別」というものに対して疎く、時には鈍感に過ぎることもある。少なくとも私はそう感じている。もちろんそれは私自身も含めての話。
ただ、差別に疎いというのは自分から他人に対するものだけではなく、時に自分が人から差別を受けていることにすら気づかない結果も生み出す。だから以前私が受けた対応について、人様からそれは差別されているんじゃないかと言われた時にはショックを覚え、一体どう判断するべきなのかとも悩まされた。
かつて暮らしたアジアのとある国では、数年に一度は大規模な反日デモが起きたり、酷い時にはただ日本人であるという理由だけで殴られる人が居たりもした(私の友人の実体験)。私自身は肉体的暴力を受ける経験をせずには済んだものの、言葉の暴力を受ける場面はあったし、直接的な差別に触れる機会は決して少なくなかった。無論それだって許されていいものではないのだが、国籍を理由とする差別以外の何物でもないと分かるだけまだよかった。
そして、かの国へと渡った当時は私もまだ18歳と若く、その割に負けん気だけは一丁前で、そのような差別も却って言葉を習得する為のモチベーションになった。だから最終的には現地の人を相手にしても遜色無くやり取りができるレベルにまで達したと自負しているし、元々外見だけでは判別が難しいのも相まって、日本人であると知られることも無ければ、日本人であるが故に差別を受けることも同時に無くなっていった。
つい先日のこと、モントリオールに住む日本人の友人と電話で話していた。彼女はこの国に暮らして既に10年以上が経過し、英語だってビックリするほど上手に操り、カナダ人のご主人まで居て、その上日頃からとても積極的に生活に向き合っている。つまり私なんかと比べてカナダでの経験値がよっぽど高い。
ところが、そんな彼女が経験した理不尽な出来事について、電話越しに滔々と私に訴え続ける声には苛立ちや悔しさが溢れていたし、私も聞きながら共感を覚え、苦しくも感じた。
日本とカナダでは、例えば文化的な差異であったり、サービスの質に対して求められるレベルの違いがあるのは当然だと、カナダ生活の経験豊富な彼女だからよく理解している。ただ、単にその点だけで判断するにはどうにも理不尽さの説明がつかない時があることには、彼女もやはり私と同じように困惑するのだろう。
かく言う私も現在エドモントンにある持ち家の管理を依頼している不動産業者とバトルの真っ最中だ。現在進行形の事情なので詳細についてここで触れることはしないけれど、自分の身に起きているからと贔屓目で見ること無く、誰が聞いてもあまりに理不尽な対応をされていると思う。
もし私自身のカナダ経験値が高かったならばこんな思いをせずに済んだのかもと考えたり、実際に起こってしまってもよりスマートに対処できるのかもとも考える。とは言え、起きている事自体については業者側に起因していて、全ては彼等のプロ意識の欠乏から来ているもの。そしてそれ以上に許せないのは、このような事態が発生した後にフォローしようとする気持ちが無いばかりか、私に責任転嫁をし、金をふんだくろうとすることだ。
いかに経験値不足の私でも、日本で期待するようなプロ意識をカナダでは期待しない。相手がどんなミスをしても謝らないかも知れないのだってまだ我慢する(だからこそ「カナダ人はよく謝る」だなんて冗談はもう聞きたくない)。それでも責任転嫁したり、金銭的損失を私に被らせるのはいただけない。おまけにその間によこして来るメールの文言を読めばまさにキチガイそのもので、カナダに来てまだ間も無い人が見たらあまりの酷さに涙をこぼすのではないかと思うようなレベル。
でもここで問題なのは、一体何がそうさせるのかということ。私にはそこに差別が含まれていると短絡的に言うことはできない。実際にそうであったとしても、いかんせんそのように確信できるだけの判断力も勇気も無い。だから余計に悔しい。
見てくれからしてこんなにも違い、名前だってどこからどう見ても日本語だし、英語を話せばもう異邦人丸出し。残念ながら差別されやすい要素が揃いに揃っているのは確かなこと。
そうとは分かっていても、自分が差別を受けていると認めるのはやはりどこかで抵抗があるものなのだ。だからこそ理不尽な対応の陰には差別というエキスも含まれているとは考えたくない自分が居るのだろう。結果として、そんな人はきっと誰に対しても同じように対応していると思い込もうとする。それが事実なのかどうかは結局のところ分からないまま。
それでも、差別だろうがそうでなかろうが、理不尽な対応に遭った時にも容易に挫けず、徹底して戦い抜いた経験が幾らでもあるのが今となっては幸いしている。経験だから貯金とは違って食い潰すことも無い。その大半は遠いアジアの国で得たもので、カナダでそのまま用いるのは必ずしもいつもいい方法ではないかも知れないけれど、自分の身は自分でしか守ってあげられない以上使えるものは躊躇わずに使うが勝ち。そう思うようにしている。
おい、不動産屋。痛い目を見たくなければもう私をなめるな。