「もう振り返らない」カナダの市民権取得申請を提出した話

私が市民権の獲得について結構悩んでいたのは以前にも書いたが、その後申請に必要となる書類で唯一不足していた語学レベルの証明も移民向けクラスに通って無事に入手し、申請条件だけなら一丁前にも整えてしまったのはまだつい最近の事。

悩んでいた事自体がまるで嘘であったかのように、英語クラスの成績証明を入手した当日、勢いそのままに申請を済ませてしまった。それまではどうするのがいいのか、どうするべきなのか、あれやこれやと悩んでいたはずが、その日がやって来るともう大して考える事をせずに行動に移していた。あまりに簡単に過ぎる気がしないでもなかったが、きっともう現時点でできる考えも悩みも済ませてしまったからこその結果なのだと思いたい。

ただ、勢いで申請を済ませられたのにはもう1つ別の理由がある。それがこれだ。

オンラインでの提出が可能になった市民権取得申請

皮肉にもコロナウイルスの大流行が手伝ったのか、いつの間にかオンラインでも市民権取得の為の申請ができるようになっていた。幾つかの満たすべき条件こそあるものの、基本的には年齢がその範囲内(18~54歳)に含まれてさえいれば、誰でもオンラインで申請が可能であると言って差し支えない。

オンラインで申請する際、顔写真だけは自分で撮ったものは使えず、Walmart等のスーパーや、その他文房具を扱うStaplesのようなところで撮ってもらわないといけないのだが(以前なら安く、手っ取り早く、証明写真を撮れたCostcoは、残念ながらフォトサービスそのものを終了してしまった)、それでも申請当日に準備できるものだし、その他の書類に至っては頭を悩ませるチャンスすら無い。

だから過去5年の出入国記録を丁寧に記録し、全ての書類を用意しておけば、あとはオンラインでフォームに記入し、クレジットカードで申請費用(2021年5月現在でCAD630)を払うといった一連の作業は1時間もあれば完了してしまう。これが市民権取得申請なのかと疑いたくなる程にあっさりしている。あっさりし過ぎて何の後味も残らなかった。

市民権取得申請提出後

オンラインへの移行したのは申請提出だけではなく、提出資料の不足があった場合の再提出はもちろんの事、このコロナ禍に於いては、カナダの歴史や文化に対する知識を問うテスト市民権取得セレモニー(授与式)までもが全てオンラインで執り行われるようになっている。

セレモニーでは宣誓を行う以外にもカナダ国歌を歌う事になっているけれど、そのセレモニーがオンラインで、となると、まさか自宅でパソコンの画面に向かって国歌を歌うのだろうか?不謹慎な言い方になるかも知れないが、絵的には非常に滑稽だし、その様子を他人には絶対に見られたくない。

コロナ禍が生活に与えた影響の大きさは誰もが身を以て感じている事だろうし、それは私にとっても同じだ(多くの人と比べればよっぽどマシではあったとは思うが)。ただ、人生に1度きりであろう市民権取得のセレモニーまで影響を受ける事になるとはさすがに想像できなかった。無論、申請を出したばかりの現時点では手続にどれだけの時間を要するかも分からず、審査を無事通過し、テストにも合格して、セレモニーに招待された時には、カナダのコロナ禍も既に収束している可能性は無きにしもあらず。そうすればトラウマになりそうな程の滑稽なシーンを演じる事からも免れる。

決断後にようやく拭い去った葛藤

私自身、これまでの人生の半分以上を日本国外で過ごして来ていても、異なる文化や習慣の影響を受けつつ生活している事実こそあれ、だからと言って自分のアイデンティティが失われたなどと思った事は無い。

考えてみれば、「東北魂」だとか「九州男児」なんて言葉が、私と同じようにとうに故郷を離れ、何十年もの時間を東京都民として過ごしている人を語る上でも使われる。住民票が東京にあろうが、便宜上本籍を東京に移していようが、バックボーンとなるものがどこにあって、その存在を意識し続けるのかは、戸籍などに左右されるものではないだろう。

国籍が日本からカナダに変わる事に対しても、私はそれと同じように捉えればいいのだと思う。ある1つの国家に属し、その地を生活の拠点とし、その地で果たすべき社会的責任を果たす。単にその場所が日本からカナダに変更されるだけの事だ。日本国籍を失ったところで日本人ではなくなる訳ではない。日本の心を持ったカナダ国籍の人間が居てもいい。

だからもう振り返らない。