2歳になったばかりの黒毛犬。名前はさくら。シェルターから迎えた我が家の次女だ。
まだシェルターに居た頃、彼女には別の名前が付けられていた。それがサターン (Saturn) 。つまり土星。先に迎えた長女の名前は変えなかったのに次女には新たにさくらと名付けたのには、サターンの名がどうしても私にはしっくりと来なかっただけでなく、まだ幼い犬でシェルターに居た時間も短かった(その名で呼ばれていた期間も短い)から大丈夫だろうと考えた経緯がある。
名前を考えていた時、他にも幾つか候補となるものがあるにはあった。それでも、黒毛の見た目であまり似つかわしくないかもと思いつつ、私が最終的に付けてあげたいと思ったのがこのさくらという名前だった。あれから季節が二回りして、当然ながら今では次女もさくらが自分の名前だと認識している。
次女がその名を名乗って以来、道端やドッグパークで出会った人達に名前を聞かれた経験は数知れず、桜という日本語を知っている人はもちろん、私が意味を教えたことで初めて理解した人も、皆が一様にビューティフルネームだと褒めてくれただけでなく、ちょっと恥ずかしがり屋の彼女とも気さくにコミュニケーションを取ろうとしてくれた。
ところが昨日、毎日歩く公園の入口で遭遇したある女性の発した言葉は、私がこれまでに聞いたことの無いものだった。
いつもと同じように、尋ねられたがままにさくらという名前であると答え、その上で意味を伝えたところ、
「そうなの?でも桜っぽくはないわね」
とこの女性は言ったのだ。
彼女が何をどのように判断してそう言ったのか、私にはそれを正確に知る術は無い。ただその時点に於いて、果たして桜っぽいのか、もしくはそうでないのかを判断する基準は、次女の外見以外に他の要素は皆無だったように思う。
確かに私自身も次女の黒毛はその名に似つかわしくないかも知れないと考えたことがあった。だからそんな風に言われたところで特別違和感も覚えず、挨拶を済ませてまたすぐに歩き始めた。
しかし数歩程進んだ後になって、「うん?」と思い返した。
彼女の言葉って、実はかなり非常識なのではないだろうか?
身体的な見た目についてあれこれ言ったり、見た目を根拠に何かを判断するというのは、ここカナダ社会では基本的にタブーなはず。単にカッコイイやらカワイイと言うのならまだ別でも、大抵は全く触れないか、触れるにしても細心の注意を払う必要がある。
だからこそ、私が次女にさくらと名付ける際に悩んだ理由についても、同じ文化を共有する人になら話すかも知れないが、この地で生まれ、育った人に話すことはしない。それはもちろん相手に変な勘違いをされたくないからだ。
ましてや次女は黒毛の犬。ただでさえ避けるべき外見の話題なのに、そこに黒という色が含まれると余計に複雑になりかねない。自分には他意が無くても、聞いた相手がどう捉えるのかはコントロールできない。
初めに違和感を覚えなかったのは、あくまで私自身の基準で相手の言葉を捉えたから。ところが、普段から私を神経質にさせるこの社会の一般的基準に戻って改めて考えるとどうか。
私達は初対面。出会って交わした言葉もほんの二言三言。そのような状況で次女の外見だけを見て否定的要素を含む言葉を発するのはやはり不適切であったように思う。人も犬も関係無い。
言っておくが、私はバラやタンポポが描かれた服を次女に着せていた訳ではない(大体服の一着すら持っていない)。この時次女が唯一身につけていたのは、毛色と同化したような黒いハーネスだけだった。
物事をより簡単に、単純に考えて言うならば、まず何よりも先に、偶然通りすがった初めて会ったばかりの人が付けた名前にケチをつけていい訳が無いのだ。少なくともこの点は日本でもカナダでも常識だろう。
桜からイメージするのとはかけ離れた次女の毛色であろうと、今では私もとてもいい名前を付けてやったと思っているし、さくらは本当に可愛い可愛い私の自慢の女の子だ。見ず知らずの人に言われたことなどもうどうでもいい。
ちなみに次女より先に同じシェルターから引き取った長女は、長期に渡る荒野での放浪生活を経て皮膚病があったのに加え、既に成犬でもあった為に人気が無く(いつだって幼犬ばかりが先に引き取られて行く現実がある)、シェルターで暫く過ごしていたこともあって、既に聴き慣れていたであろうそこでいただいた洋名をそのまま引き継いでいる。