カナダの田舎暮らしの理想と現実

カナダに移住する前、決してこの土地に憧れを抱いていた訳ではなかった私にとって、その名を聞いてイメージするものなど大自然の景色ぐらいだった。ロッキー山脈だとか、ナイアガラの滝とか。他に何が思い浮かんだろう。トロントにモントリオール、バンクーバーといった一部の都市の名前ぐらいか。それ以外は特に無い。無かったと思う。

ただ移住して来るにあたって、それまではアジアの大都市の喧騒の中に身を置いて長かった事もあり、できれば少し静かな環境で落ち着いて暮らしてみたいという希望はあった。世界第2位の国土面積を誇るこの国の人口は僅か3500万人程度。土地だけなら幾らでもあるから、とにかく静かでさえあればいいのなら、そんな場所は実際にこの国のどこにでも見つかる。そして私が縁あって一時期生活を送っていたのが、大西洋に面したニューブランズウィック州のとある田舎町だ。

カナダへと渡って一番初めの時期を過ごしたモントリオールとは違い、とことん文字通りの田舎だった。スーパーが何軒あって、ファストフード店は何軒、ガソリンスタンドも何ヶ所と、あの町を離れて2年以上になるのに思い出して数える事ができる程だ。町の北側は海に面し、南側のそう遠くない場所には牧場が広がっていて、その日の風の向きによって空気の匂いも違う。そんな町には夏の観光シーズンにこそ特産のロブスターを求めて多くの人が集まって来るものの、他の季節になれば当然のように閑散としたもので、それでもそこに住む者達は穏やかに生活を営み、平和な雰囲気に包まれた場所だった。これだけの時が流れた今になっても、恐らくは大して代わり映えもしていない事だろう。

当時の環境は今になっても懐かしく思う部分もあるし、いつかまた時間を見つけて訪れてみたいとも考えてはいる。ただ、またあのような田舎に住めるのか、それを現実的に捉えられるのかと言えば、正直ちょっと難しいのかなと感じる。

人によっては必ずしも「静かな場所=田舎」ではないのだろうけれど、私の思う「静か」は単に耳に入る音だけを指しているのではなく、何より自分の心を静かに保てる事がより大切で、その為には自然に少しでも近く、潮風の匂いも、空気の温もりも、できるだけあるがままに感じられる場所であるのが理想的だ。

彼の地もそんな場所だった。でもそこは日本ではなかった。カナダという外国だった。

外国だから叶うライフスタイルは確かにあるし、外国に居るから住める場所もあり、外国でこそ初めてできるチャレンジだってある。しかし、そういった事を実現するのには支払わなくてはいけない代償があり、その代償が意味するものについて自分があまりにも無知である事に人はなかなか気がつかない。かく言う私も体験してみてようやく口で言うほど簡単ではないと理解したのだ。

以前アジアの国に暮らしていた私は、一外国人として他人の土地に生きる事には慣れたつもりでいた。今になって思い起こしてみれば、アジアでは見た目という要素で外者だと判断される事が無かった為に、その町の景色の中に同化できていたのは大きかった。

カナダに於いても例えばトロントやバンクーバーといった都市であれば、同化するとまでは行かなくとも、個人が単体で目立つようなケースはまだ少ないだろう。あくまで集団として目立つぐらいで、個人は大勢の中の1人で済む。

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ところが田舎町では事情が全く異なる。交流が全く無く、私という個人を知らないはずの人が、何故か私の存在だけは知っている。私は相手に見覚えが無くても、相手には「あのアジア人」として記憶に残る。あたかも個人情報が駄々漏れになっているかのような感覚に陥り、居心地の悪さを感じずにはいられない時がある。悪い事も、恥ずかしい事もしていなくても、いつどこで何を言われるかなど分からないし、田舎では当然噂が回るのも早い(人の噂話をしたがるのは日本人もカナダ人も一緒だ)。その上「同類」の仲間は居ない。

今まさにヘイトクライムが広がりつつあるのを見るにつけ不安は更に募る。そんな田舎町ではあり得ない事だろうなどと判断してしまって大丈夫なのか。普段どれだけ平和に感じていてもそれはあくまで感覚的に捉えた全体像に過ぎず、その中に1人でも思想的傾向の怪しい人が居た時、町で唯一の攻撃対象となるのが自分かも知れない。自分は相手を知らなくとも相手は自分を知っている、というのはこのような状況下では特に怖い。

田舎に住む事で向き合わなくてはいけないより直接的な不便さも、もちろん無視する事はできない。

中でも最たるものと言えばやはり食に関する部分。海外に暮らす事で、多くの人は食生活がいかに大切であるのかを改めて確認する事になる。私はこの点についてもアジアの国に生活している間はそれほど意識せずにいられたのが、カナダに移住して来てから食文化の違いが生活の質に与える影響に気がつかされた。

正直な考えを述べるならば、私はカナダには食文化など無いに等しいと思っているし、実際カナダ料理と呼べるようなものに何があるのかと聞かれ、すぐに幾つも例を挙げられるような人が居るとも思えない。日本人として、日本やその近隣諸国の食文化の中で生きて来た私が、今後はカナダの食だけで生きて行きなさいなどともし言われてしまったら、それこそ半分人生が終わってしまったような絶望感を覚えるだろう。カナダのどの大都市からも遠い田舎に住めばそんな食生活が待っている。ちっとも大袈裟ではない。

「愛する人さえそばに居ればどこに住んでも大丈夫」と言える人が羨ましい。私は大丈夫ではなかったけれど。現実的な事を言うならば、私達の精神は何も愛だけでできている訳ではない。あまり楽観的に過ぎて、気づいた時にはもう心が蝕まれていたなんて事はやはり避けたいものだ。

海外生活ではできれば避けたいと思っていても、運悪く必要に迫られてしまった時には行かざるを得ないのが病院。

幸い私はカナダに生活してこの5年、まだ病院のお世話になった経験は皆無だが、必ずしもこの期間中全く病気をせずに済む程の健康体を維持できたという事ではない。高熱を出しても、ひどい頭痛に悩まされようと、それぐらいではカナダでは病院に行く理由にならないだけ。海外でいい加減な生活を長らく送って来た事が原因で、四十代半ばになった今少しずつ体にガタが来ているのを感じ始めていても、程度が不足していれば検査すらしてもらえないのがカナダだと諦めているだけ。

検査機器も無いような地元のクリニックに行くだけの段階であれば、実は田舎町での方がよっぽどすぐに診てもらえたりする。ただそこから専門医による診断や精密検査へと回される事になった時、早急な加療を必要とする状態であると見做されない限り、その場合の待ち時間は都市部と比較して信じられない程に長くなる。

検査すら受けられていない状況で既にふるいにかけられ、数ヶ月単位での待ちぼうけを食らわされ、ようやく検査の順番が回って来たらもう手遅れだった。そんな恐ろしい事が田舎ではより起こりやすい。当時まだニューブランズウィックに住んでいた時にも、私のご近所さんが検査を受けるべき時に受けられずに亡くなった。死因は急性胆管炎。たまってしまった胆石が胆道に閉塞を起こした結果。何度も痛みを感じて地元のクリニックに通っていたにも拘らず、急を要する状況ではないと、なかなか検査の手配をしてもらえなかったらしい。

「胆石なんかで死にたくない」。話を伝え聞いた時、私は正直そう思ってしまった。

田舎に住む事のデメリットは他にもまだあるけれど、ここまでに書いただけでももう充分過ぎるように思う。

かつてはそのような場所に暮らし、生涯そこで生きて行く道を模索した事もある。実は今もなお田舎での生活に憧れを抱き、時には可能性について考え直そうかとさえ思う事だってある。

それでも、憧れで決断できたとして、いつまでも憧れだけで前進できる程ピュアな心の持ち主でないのは自分でもよく分かっている。体力にしても今後は衰えて行くばかりなのに、田舎で何事も自身に頼らざるを得ない環境でどこまで頑張れるのか。どう考えても厳しい。

結局最後に行き着く答えはいつだってこんな感じだ。

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