コロナ禍で凶器になった自由と権利

「政府の発表するデータなど全てフェイクだ」

「感染するのが怖いヤツだけ家に閉じこもっていればいい」

「私はただ自分の生活を送りたいだけ」

あくまでネット上の言論であるとは言え、こういったコメントを初めて目にした時は心底驚いた。「え?これって炎上狙い?それともただ頭がおかしいだけ?」

でも考えてみれば、フェイスブックで各メディアの記事下に書かれたコメントだから、炎上したところでコメ主に広告収入がある訳でもない。じゃあ頭がおかしいだけ?それにしては数があまりに多過ぎて、逆に自分の頭がおかしいのかと思ってしまう程。

そして実際にはそういったコメントに反映された思想や利己主義的な部分が、より直接的な行動となって現れ始めている。

その最たる例とも言えるのが、最近ニュースで大きく取り上げられているエドモントン郊外の教会。

– 州政府が定めたルールを何度も無視し、ソーシャルディスタンスを守らずに礼拝を執り行った事で牧師が1ヶ月強に渡って拘束される

– その後牧師は釈放されたものの、結局また同じ事を繰り返した為に教会そのものが州政府によって閉鎖された

– 閉鎖後初めての日曜日には信者以外にも大勢の人が集まり、教会を取り巻くようにしてデモを起こし、マスクも付けずにシュプレヒコールをあげた(車は無断で他人の土地に駐めるというおまけ付き)

– 実は礼拝も別の場所で秘密裏に行われた事が発覚

ここでも叫ばれたのは「信教の自由」や「個人の権利の尊重」といった、字面だけ見れば至極真っ当に思えるもの。

「それでも忘れてはいけないのが、自由にせよ、権利にせよ、社会があってこそ初めて存在する概念で、

今この社会を守る為に多くの人が努力をしている時に、逆に自由や権利を凶器に換えて社会の安寧を破壊しようとするならば、そのような者達はまず初めに社会が与える全てを放棄すればいい。もちろんカナダが誇る原則無料の医療サービスも含めて全てだ。

社会を守ろうとできない者は、社会に守られる理由も無い。自主的にその社会から離脱して自分の王国でも作ればいいじゃないか。自由も権利も、自分の思い通りになる自分の国で叫べ。その時は忘れずにお抱えの医者でも一緒に連れて行け。貴殿の新たな社会への旅立ちを、私も心から喜んで見届けるだろう、ソーシャルディスタンスのルールを守った上で。」

少し乱暴な表現になってしまったが、これが私の素直な感情だった。

ネット上でのコメントだけならまだしも、少なくとも私はそれが間違っていると信じる事を彼等は何の悪びれも無くやってのけて、それが原因でまた誰かがコロナに罹ったり、亡くなったりする危険性を広げている。ナイフや爆弾、毒薬を使わないだけで、傷害罪にも殺人罪にも問われないし、「わざとやったんじゃない」と言い訳をする必要すら無い。幾ら何でも理不尽過ぎる。

だから私はもう我慢がならないし、こういった事は極端な例だと説き伏せられるのにもこれ以上耐えようとはしない。今も将来も隠れようとする気配も見せず、ここまで露骨に存在する闇には、見て見ぬ振りをする必要などあると思えないから。無論私が確実に正しいだなんて言えないけれど、この世が元からそんなに平和ではないのもまた確かで、黙っていれば何事もいつか無事に過ぎて行くなんて幸せを保障してもらえるような世界に私達は生きている訳ではない。

そして私はこの国の「自由」と「権利」に関する疑問を、移民向け英語クラスの担当の先生に投げかけた。言語の学習とは直接関係無い質問である事を断り、了承を得た上で、自分で捉えるイメージとこの地で見て感じている事の間に存在する乖離についてメールに書いて送り、先生の見解を聞かせてくださいとお願いした。送信から数日後に先生から頂戴したのはとても有難い長文のお返事で、詳細については後日に改めて整理しようと思うが、先生も今の利己主義が蔓延するカナダ社会には希望を抱けず、今後についても憂いておられるのだそうだ。

カナダの行く末や如何に。

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