長年海外に暮らす息子から母への願い

数日前の事、日本の母から家にクリスマスツリーを飾ったと写真付きでメッセージが届いた。そこには新年はお節作りは我慢して普段と同じように過ごすとも書かれていた(だからせめてツリーだけでもと、例年より幾分早めに飾ったらしい)。

なぜ毎年大変だと口では言いながらも結構楽しんでお節を作っている人が今回は作らないとかと言うと、今年は父方の祖母と叔父が相継いで亡くなり、特に遠くヨーロッパ某国でコロナ禍の中逝ってしまった叔父には最後に会いに行く事も叶わず(亡くなった原因はあくまで膵臓癌だったのだが)、母によれば、まだ気持ちの整理ができていないのだそうだ。

「気持ち」など元々人それぞれのもので、親子だからといって全く同じであるなど有り得ない。本人がそのように新年を迎えたいと本心から思っているのならそれで別に構わないし、自分達で思うようにすればいいと思う。

ただ誰しも、こうあるべき、こうしなければいけない、という思い込みに陥る事は少なくない。そこに伝統だったり習慣だったりというしがらみが存在するのなら尚更。無論、伝統も習慣も否定するつもりは無い。それがある事で心が豊かになる事もあれば、私のように海外に生活している者にとっては精神の拠り所にさえなり得るとても有難いものだからだ。

それでも同時に、これは私の勝手な願いであるかも知れないけれど、適度に自分に都合よく、融通を利かせた捉え方をしてもいいんじゃないかとも思う。だから本来自分達の伝統とはまるで関係の無いはずのクリスマスツリーだって飾るし、そこには下手に強過ぎる思い入れも無いから、逆に言えばクリスマスツリーなら喪中であろうと飾れる。

同じように、お正月もただのお祝い事として捉えずに、無事に新年を迎えられた事に感謝する時なのだと捉えられるのなら、我慢などするどころか、例年同様に迎える事でこそ、故人に想いを馳せ、感謝し、そして弔ういい機会になるのではないかと思い、母にはそのように伝えた。

父は既に72、母も来年には七十代に突入する。あと何回新年を迎えられるかなど誰にも分からない。もしも捉え方次第で失われずに済むものがあるならば、残り決して多くはないであろう機会の1回1回を失わずにいて欲しいと、結局のところいつも勝手な息子は願わずにいられない。

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