まだごく最近(2021年1月21日)の事なのだけれども、海外に住む数名の日本人と元日本人が日本政府を相手に起こした裁判の判決が東京地裁で出た。「元日本人」という言葉がある事からも想像がつくように、今回の裁判に於ける最重要ポイントはつまり二重国籍を認めるか否かだった。
結果、原告側の訴えは完全に却下された。これまた想像する必要も無い程、少なくとも今の日本ではこれが当たり前だとでも言わんばかりに下された判決だったように感じる。
私もこの裁判については前段階からずっと経過を注視して来て、こうしてようやく地裁での判決が下るまで辿り着いた事がニュースでも取り上げられているのを見ると、結果はどうあれ原告の方々にとって確かな一歩になったのは間違い無く、「ひとまずはお疲れさまでした」とお伝えしたい。
海外に出る事も今では多くの日本人にとって難しい事ではなくなった。実際にいくつかの国で暮らしてみると日本人は想像以上にあちこちに住んでいて、自分がただの物好きではないのに気づく。
そして再確認する。そこに住んでいる理由は人それぞれでも、皆やっぱり日本が好きなんだなと。
外国人として生活していて、アイデンティティが社会的に目立つかどうかは住んでいる国によっても違うものの、自分の心の中では日本に居る時に想像した事も無い程はっきりとする。
アイデンティティと国籍は混同されるべきではないのかも知れない。それでも一旦はっきりと見えてしまったアイデンティティと、その時点ではまだ同じワードをもってイコールで結ばれている国籍を自分から切り離すのはどうしたって難しいものだし、怖さだってあるはずだ。
私はあくまでも「二重国籍が認められるようになればいいけど、認められないのであればそれを受け入れる」というスタンス。
法律で定められている以上は、外国籍を取った時点で日本側にも国籍の喪失を届け出るべきだと考えているし、今進めている計画通り(別文:日本国籍を失ってでもカナダの市民権を申請すると決めた理由)に近い将来カナダの市民権を取得したならば、もちろん当地の日本領事館に赴いて喪失届を提出する。その為の心の準備もできている。
そうは言っても個人的に思うところが全く無いのとは違う。「二重国籍が認められるようになればいいけど」と思っているのに対して、現実にはそれが認められていないのだから理由を知りたいと思うし、実際にこれまでにも幾度となく調べて来た。
そしてその度に感じて来た疑問がある。それは、なぜこれまでまともに然るべき場所で議論と再考を重ねる機会が与えられなかったのか、という事。
今回の判決について報道がなされた後のネット上の反応を見ると、「外国がそうだから日本もそうあるべきと言うのはおかしい」という意見まではその通りだと思うものの、そこに当たり前であるかのように続く「日本の憲法や法律に書かれているのだから」という内容には少なからず違和感を覚える。
法治国家である以上憲法や法律が絶対であるのに異論は無い。ただ、憲法や法律がいつ、どのような状況に基づいて、何を目的として制定され、それを理解した上で現在の実情に適したものであるのか、それはどのような法に拘らず何度でも見直しがあるべきだと私は思っている。
だから多くの人が似たような口調で「憲法が」、「法律が」、と言うのを見ると、そこにはまるで建設性が存在せず、思考回路そのものが断絶しているように感じる。
同時に、私自身も外国籍を申請するとの決断を下したが為に、結果として日本国籍を失おうとしている1人として、そしてその決断をする前に長く考え、悩むという過程を踏んだ者として、日本が二重国籍を認めない事に対して賛成や反対という言葉で態度を示そうと思うより先に、単に不思議に感じる部分の方が大きい。
特に不思議なのが、二重国籍の問題を考えるにあたって重視されるべき事が完全に挿げ替えられているように見受けられる点だ。
これから他国籍を申請しようとする人と、直接的な関係は無いながらも報道を見た上で意見する人の両方に対して感じるのだが、なぜか損得勘定だけからものを言っている人が多いように思えてならない。「両方の国籍を持てた方がいろいろと便利だし」とか、逆は「法律がそう決めているのにあなただけ考えがずるい」といったように。
国籍自体が元々国によって付与されるものなのだから、この二重国籍に関する問題にしても個人の損得を基準に判断されるべきものではない。持つ者のわがままも、持たざる者の妬みも要らない。そんな低レベルでのやり取りは全くの無用だ。
あくまで個人と社会双方のメリットとデメリットに焦点を置き、個人がより幸せに生きる事ができ、社会がより人々の住みやすい場所になる為の決定をするべきで(一方にメリットが偏る事で、もう片方がデメリットばかり被るようでは意味が無い)、それは明らかに損得とは意味が異なるし、何も国籍に関する問題に限った事でもないだろう。
無論、日本に於ける二重国籍問題は何も日本人だけでなく、日本で暮らす外国人にも関係する問題だ。
バブルが崩壊してからそろそろ30年。日本人なら閉塞感が蔓延していると形容する社会でも、ごく身近なところで多くの外国人が働いている姿を見かけるようになった。彼等が日本でチャンスを欲し、日本が彼等の労力と知識を必要としたからだ。日本人が希望を失いかけていても彼等にとって日本とはまだ希望を叶えられる場所で、日本にとって彼等は社会が社会たる為に無くてはならない存在になりつつある。
そんな現状に鑑みた時、重国籍者が存在する事で国や社会にどのような不都合があり得るのか。もし将来的に認める方向性が少しでもあるとするなら、そういった不都合を未然に防ぐ為に今ある法律を改訂したり、新法を制定する道は無いのか。
構造と内容が変遷を続ける中、ルールだけ昔から変わらないままで、本当に社会の健全な発展を保障できるのだろうか。
自分達が思っているより多くの外国人が日本の社会で活躍し、同時に多くの日本人の人材が海外へと流出している。今更外国がどうこうという話ではなく、以前なら誰も想像し得なかった景色が現在の日本には確実に広がっているし、今後も変化を続けて行くだろう。
私自身は数十年後に何かが新しく完成するなどというニュースを見ても、「もうその頃自分は」などと考えずにはいられない年齢に入って来ているとは言え、その頃社会で活躍し始める若者達がまだ大勢居る。
だから、今のような過渡期の環境の変化に仕組みがすぐには追い付かないのは仕方が無いにしても、より積極的に次世代に希望を残してあげられる社会であって欲しい、と私は願う。その願いは、例え近い将来に日本国籍を失ってしまっても変わる事無く私の心の中にあり続ける。
そしてきっと同じように願う外国人が、日本のファストフード店や、コンビニや、飲み屋で毎日汗水たらして働いている。日本人ではなくても日本人と同じように、社会の為に、もちろん自分の為にも、今だけでなく、未来の為に働いている。彼等の存在にも、彼等の命と心にも、もっと目を向けられる社会であって欲しい。
法律がどのように社会と個人に影響を与えるのかこそ重要なのであって、その存在だけに頼るのでは意味が無い。法律本来の存在意義を充分に発揮できるかどうかは結局のところ人にかかっている。必ずしも重国籍を認める事を前提とするのではなくても、議論を始め、数ある問題点への理解を深めるべき時に来ているのは確かな事ではないかと思う。