北極熊が出没するチャーチルでは人々は車に鍵をかけないらしい

「チャーチルでは車に鍵をかける事が禁止されている」

それはSNS上でまことしやかに言われていた。いつ北極熊に遭遇してもすぐに身を守る場所を確保できるように、という事らしい。

チャーチル (Churchill) は、カナダでも内陸に位置するマニトバ州北部にあって、遠くは北極海とも繋がるハドソン湾に面している。2016年の統計に拠ると人口僅か900人程の小さな町だ。

地図で位置を確認してみれば、その場所柄、確かにいつ北極熊に出くわしてもおかしくないようにも思える。ところが実際にはそうではないらしい。毎年秋の10月から11月にかけてハドソン湾がチャーチル一帯から凍り始めると、好物のアザラシを狩るのに適した条件が整ったと見て、北極熊はようやくこの地に集まって来るのだそうだ(参考サイト:もっと知りたい ホッキョクグマ – カナダシアター)。

寒さが増すにつれて氷に覆われた範囲が広がれば、そのうち北極熊も方々へと散らばって行く。だからチャーチルだけが凍りつき、チャーチルだけに北極熊が集まって宴に興じているのを見られるのはほんの短い間。この小さな町に1000頭近くも集まる中、それを見たいが為に押し寄せる人の数は熊の数をも上回る。北極熊にしてみれば、これまた別の獲物を見つけたとでも思うかも知れない。

そんな町で、地元の人ならまだしも、事情に疎い観光客の1人や2人が外を歩いていたところに突然熊が襲って来てもそう不思議には聞こえない。でもだからと言って、車の鍵をかけずにおくよう法律や条例で決めているような事も無いらしい。

“‘There is no current law in place in Churchill that requires residents to not lock their vehicle door,’ Paul Manaigre, a spokesman for the RCMP in Manitoba, the province that Churchill belongs to, told AFP by email.”

Unlocked doors in Canada’s ‘polar bear capital’ are custom, but not law / AFP Fact Check

いくら飢えた北極熊が凶暴とは言え、さすがに個人の財産権が侵害されるきっかけにもなり得るルールまで制定する事はできないのだろう。

それでも実際にロックせず路上に停めっぱなしの車は多いのだそうだ。元々900人しか住まないような小さな町だけあって、単に警戒心や懐疑心を持たなくても済む生活環境だと言うのならそれは羨ましい話だし、何よりチャーチルと外界を結ぶ道路は初めから存在すらしていないのだから、何人たりとも逃げも隠れもできない。

所変わって私が住むアルバータ州のとある町の話。

ここは真冬の寒い時にもなればマイナス40度にまで気温が下がる。そんな寒い日に多くの人が実践しているのが暖機運転で、外出前は早めにエンジンをかけて車を適度に温めてあげる。まだ外が真っ暗な中、人は乗っていないのにランプだけ点灯した車が朝の住宅街のあちこちに停まっているのも冬の風物詩的光景だ。

しかしここではそんな車が結構頻繁に狙われる。走行距離が10万kmオーバー、20万kmオーバーの車がごまんとあるカナダに於いて、リモートエンジンスタート機能が無く、キーを挿したままでないとエンジンがかからない車はまだまだ多い。だから、車上荒らしどころか車ごとそのまま持って行かれる。

残念な事に、ここはチャーチルのような治安良好の町でなければ、道路にしても、西は太平洋、東は大西洋まで繋がっている。何の対策もせずに無防備にしていれば盗まれても当たり前(と捉えて、自分の財産は自分で守るべきだと私は考える)。地元の警察はSNSまで駆使して注意を呼びかけているものの事態は一向によくならない。ゆるい人が多ければその地域全体が狙われやすくもなる訳で、当人だけの問題では済まなくなるのだから勘弁して欲しい、と思う。

さて、話を彼の地へと戻そう。

2017年5月にマニトバ州で発生した大洪水により、州都ウィニペグ (Winnipeg) とチャーチルを結ぶ鉄道が長期間遮断された事があったらしい(私もその時には既にカナダに移住していたが全く記憶に無い)。

前述したように、町の外へと伸びる道路は無い為、元々チャーチルの物流は鉄道への依存度が非常に高い。ところが洪水により命綱とも言うべき鉄道網が断絶された事で、この時は文字通り完全なる「陸の孤島」になってしまった。結果として全てを空路と海路に頼らざるを得なくなり、生活物資の供給に支障をきたしただけでなく、物価も急激に上昇したそうだ。その後鉄道は段階的に運行区間を伸ばし続けたものの、終点チャーチルまで全線復旧に至ったのは同年の12月2日の事。現地の人々は厳しい状況の中で半年以上も耐えなければいけなかった。

そんな事もあり、チャーチルへ道路を建設するべきと訴える声も出て来てはいたようだ。

“There are ways to build on permafrost, peat bog, says man who worked on highway from Inuvik to Tuktoyaktuk”

‘It’s about time to build a road to Churchill’: Engineer says it’s possible / cbc.ca

永久凍土と泥炭の沼地さえ越える事ができればいいのだ。鉄道だって通せたのだから道路を通せない理由は無いだろう。北極海へと続く道の建設に関わった人がそう言っている。

ただ、地元の人はそれを望んでいるのか。どこからも孤立する場所であるからこそ守られて来たものがあり、もし道路が通じたらどのような影響を受け、その受け得る影響について住民はどう捉えるのか。

人と人との関係性が変わってしまうかも知れない。皆が車をロックするようになって、北極熊に襲われても逃げ場が無くて犠牲になる人が出るかも知れない。理性も、道徳心も、倫理の概念もあって然るべき、同種でもある人間によって危害を加えられるのは結局のところ最も哀しい。それを恐れて北極熊に襲われる人が増えるのもまた虚しい。きっとこれまでにも幾度と無く議論されて来たのだろうと思う。

いつかチャーチルを訪れる機会に恵まれたなら、是非とも地元の人達に聞いてみたい。既に旅のリストには加えているから、後はコロナが収束するのを待つばかりなのだけれども。

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